学会コラム
第1号:本会理事長 吉田謙一(2017年6月30日)
特別講演「なぜ、無実の医師が逮捕されたのか?」を拝聴して(前半)
東京医科大学法医学分野教授(日本臨床医学リスクマネジメント学会理事長) 吉田謙一
平成29年5月28日、日本臨床救急医学会・日本臨床医学リスクマネジメント学会合同学術集会(ビッグサイト)において特別講演会が開催された。講師の安福謙二先生は、福島県立大野病院事件弁護団を結成し、歴史的な無罪判決を勝ち取った。そして、2016年、この事件の裁判を記録した「なぜ、無実の医師が逮捕されたのか?」という著書を上梓され、法律書分野のベストセラーとなっている。
講演の冒頭、安福先生は、「亡くなられた患者と遺族の皆様に心よりご冥福をお祈りします」と述べられた。これによって、多数の聴衆が一瞬にして静まり返った。
平成16年12月、産科医であるK医師1名のみが医長として勤務する福島県立大野病院において産婦の死亡事故が発生した。帝王切開により児を無事出産した後、胎盤の剥離に難渋したK医師は、クーパー(ハサミ状の鉗子)の鈍的な先端部を用いて、直視下に胎盤を剥離した。その後、出血量は多かったが、止血・閉創を済ませた直後、心室細動が発生し、患者が死亡した。平成17年3月30日、3名の産婦人科医による県の事故調査委員会が、癒着胎盤の無理な剥離と輸血対応の遅れなどが事故原因であるとする事故調査報告書を公開した直後から病院関係者が次々に取り調べを受けた。いっぽうで、検察から嘱託を受けた第三者病理医と産婦人科医から鑑定書が提出された後、平成18年2月18日、K医師が逮捕された。
裁判においては、胎盤の状態、クーパーの使用の是非、輸血の遅れ等が争点となった。鑑定に当たった病理医は、癒着胎盤を見た経験がほとんどなかった。彼は、帝王切開の際、子宮前壁に及んでいた癒着胎盤を切ったため、出血多量となったと供述した。しかし、多数の癒着胎盤の診断経験のあった大阪府母子保健医療センターの中山雅弘医師は、胎盤を精査し、胎盤癒着は子宮後壁の一部に限られていたと証言した。いっぽう、某国立大学産婦人科教授の鑑定書に基づいて、検察側が、「癒着胎盤と分かった時点で、剥離をやめて直ちに子宮摘出に進むべきであった」と主張したのに対して、近くの病院に勤務する経験豊富な産科医は、「クーパーで鈍的に剥離したのであれば、直視下に行えるから妥当である。癒着胎盤と分かっても、やめずに胎盤摘出を続ける」と述べ、検察官がこの医師に十分な情報を告げず安易に“供述調書”をとったことが明らかになった。さらに、癒着胎盤を含む多くの異常出産を経験している某国立大学産婦人科教授の証言を加えて、裁判所は、「本件裁判においては,癒着胎盤の剥離を開始した後に剥離を中止し,子宮摘出手術等に移行した具体的な臨床症例は,検察官側からも弁護人側からも提示されておらず,また,当公判廷において証言した各医師も言及していない」と認め、検察側の医学鑑定・意見は不十分であり、検察側の主張を肯定する具体的な臨床症例の提示がないと認めた上で、K医師の無罪を告げ、確定した(福島地裁平成20年8月20日判決)。
安福先生は、事故調査委員会報告書が、刑事捜査の端緒となった複数の事例を示した。この内、JAL706便事件において、裁判官が、「被告人の説明は傾聴に値する。」と述べたことを取り上げ、暗に被告人であるパイロットは、その途の専門家であり、誰よりも当該事件の実情を知る専門家であることを指摘した。安福先生は、さらに、神奈川県立がんセンター事件において、平成25年9月17日、横浜地裁の裁判長は、無罪判決を言い渡した後、「捜査が不十分である中,検察官は証拠を精査,吟味することなく起訴した」と指摘し、事後、検察庁に慎重な事件処理を求めると説諭したことを、ご自分の傍聴メモから紹介した。そして、事故に関する業務上過失の刑事裁判に共通する問題点として、検察側の捜査が不十分であり、主張を裏付ける証拠となる事例の提示がなく、証人に十分な情報を与えていない(予断に基づいて聴取している)こと、検察側証人である専門家の専門性の欠如、意識の低さを指摘している。何より、被疑者となった医師たちが、警察官や検察官に、「殺人犯や強盗犯と同等に扱われた・・・来る日も来る日も罵倒され、怒鳴りつけられ続けた」等と述べたことは、再三、指摘されていたことを裏付けていた。
安福先生は、本件裁判が投げかける本質的な問題点として、被告の人権擁護の問題点、及び、専門家鑑定人・証言の「専門性の欠如」の問題点について熱心に述べられた。本件では、K医師が逮捕・拘留され、不当な追及を受けた“人権問題”について、世界的には、身柄拘束中の被疑者の取調べにおける被疑者の黙秘権,弁護人選任権行使の内容に関する基本ルールを宣告した“ミランダ判決”に違反していると指摘された。
(次号に続く)
第2号:本会理事長 吉田謙一(2017年6月30日)
特別講演「なぜ、無実の医師が逮捕されたのか?」を拝聴して(後半)
東京医科大学法医学分野教授(日本臨床医学リスクマネジメント学会理事長) 吉田謙一
(前号からの続き)
専門家鑑定の問題については、大野病院事件の検察側証人達のような、「知ったかぶりをして、“大衆”という時代を動かす“権力”に迎合する似非専門家」について鋭い批判を展開された。第2次大戦に至る欧州の時代背景の中、スペインのオルテガ・イ・ガセットが、「医者,技術者,財政家,教師等の専門家は自分が携わっている宇宙の微々たる部分に関しては非常によく『識っている』が,それ以外の部分に関しては完全に無知なのに、自分が知らないあらゆる問題において無知者としてふるまうのではなく,専門分野において知者である人がもっているあの野蛮性を発揮する」という文章を引用して、厳しく批判した。私は、安福先生との対話の中で、日本の刑事司法の常とう手段は、「実際は信頼性が確かでない少数の専門家の意見を基に、検察官や警察官が『筋書き』をつくり、それに合わせて証拠を集める…被疑者には、密室で『筋書き』に合う供述を強要する」流れから冤罪が発生するのは必然の理であると感じてきた。不幸なことに、大野病院事件の事故調委員は、県が遺族に補償をすることを前提として、K医師の過失を認めることを求められていた。
安福先生は、裁判に求められる「糾明」は、被告人の罪・責任の有無を判断するための手続きであって、真実を明らかにし、真相を究明できる制度でない。そもそも、高度に専門化した医学の分野については、裁判所や検察・検察に理解を求めることは無理である」という。以下、この件に関する私の感想を記す。医療裁判において、裁判所は、医療従事者に、事故に関する予見と回避に関する注意義務を課し、これに違反したと判断すれば、医療従事者に刑事罰や賠償責任を負わせる。また、特定の医療行為と事故の間の“因果関係”の判断について、本件に対する福島地裁の2008年判決は、「少なくとも,相当数の根拠となる臨床症例あるいは対比すべき類似性のある臨床症例の提示が必要不可欠であると言える」として、検察が、主張の根拠となる症例を提示していないことを明確に指摘した。この判決は、裁判官のエビデンスベーストメディシンに対する深い理解と洞察が顕れた画期的な判決である。そして、この判決を導いたのが、大野弁護団の「真摯な医療専門家の意見に心から耳を傾ける」姿勢と情熱であった。
安福先生は、大野病院事件の事故調査報告書において、「・・・すべきであった」という表現を、検察官が過誤と受け取ってしまったことが問題であると指摘する。医療者にとって、「・・・すべき」は、「結果からすれば,」「振り返って考えると」本件では「すべきであった」なぁ、「今後は,それをどう活かすか,こういうことも想定して対応しなければならない」という意味を込めての表現である。ところが、法律家は、同じ表現を「通常の医療者であれば,当然しなければならない,法的義務と言えるほどの医療行為であるにもかかわらず,それをしなかった。」と過失概念に置き換えてしまうという(浜秀樹判事.判例タイムズ1355-47)。
安福先生は、医療事件が刑事司法の対象となる場合、医療者の逮捕・勾留を厭わない強制捜査権を発動することが、萎縮医療や産科医療崩壊の形で、社会や医療界に大きな犠牲を負わせてしまったこと、専門分野や学問分野にかかわる裁判について、法律家が、どのように事実を認定し、その専門分野・学問分野からの批判に耐える法的判断を適正に行えるかという問題があると指摘する。
最後に、安福先生は、猪突に、「なぜ、K師は無罪になったのか?」と聴衆に問いかけた。そして、事故直後のK医師の、「ミスをしたという認識はない。正しい医療行為を精一杯した。(しかしながら)患者さんの期待に応えられず、申し訳なく思います。」という言葉を紹介した上で、別の患者のメールを2通紹介された。1通は、安福先生のご著書の読者が、最近、子宮がん検診を受けた医師がK医師であることに気づいてネットで検索し、編集部に送ったメールであった。そこには、K医師が「とても丁寧で優しくこちらの質問にもわかりやすく応対して頂き大変好感を持ちました。…加藤先生のファンになりました。」と書かれていたという。
安福先生は、「弁護団もK医師のファンになった」ことを思い出した上で、「裁判所もK医師のファンになったのではないか?」と問いかけた。そして、「医師としての矜恃を保ち、常に真摯に患者家族と向き合い丁寧に説明し、誠実に診療・治療を行い続けた。勉強を怠らず最新の知見を身につけ、スキルを磨いたこと、彼の『専門的見解』に対する検察官らの言われなき不信と反発に遭っても、凛とした姿勢を崩さない芯の強さを保ったこと、そして、K医師のその姿勢が裁判所を無罪へと動かした。」と結ばれた。
※参考文献
安福謙二著 「なぜ、無実の医師が逮捕されたのか?」(方丈社)
オルテガ・イ・ガセット 「大衆の反逆」(筑摩書房)
詳しくは、機関誌「安全医学」に、私のコメントを含めて掲載されるので、ご覧ください。
第3号:東京大学医学部附属病院医療安全対策センター長 中島勧(2018年3月5日)
東京大学医学部附属病院医療安全対策センター長 中島 勧
(日本臨床医学リスクマネジメント学会理事)